2024 ©国谷隆志 All Rights Reserved. Photo by Takateru Kusaki.
Installation view of Osaka Contemporary Art Center.
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国谷隆志の新作

尾崎信一郎(美術批評家)

国谷隆志の新作展は「垂直なる地平」という逆説的なタイトルが与えられている。

国谷の作品になじんだ者であれば、垂直の意味を理解する事はさほど困難ではない。

私が初めて見た国谷の発表はネオンガスが満たされた30本のガラス管が天井から吊るされ、

部屋を対角線状に仕切るインスタレーションであった。赤という色彩の強調と規則的に空間を

文節する垂直線はたやすくバーネット・ニューマンのジップ絵画を連想させた。

ところでニューマンはおそらく国谷の作品を理解するうえで決定的に重要な意味を持つであろう

次のような言葉を残している。「絵画に関して私が必要と感じる事は、それによって人に場の感覚

を与えることである。つまり見る者が自分がそこにいる感じ、それゆえ自分自身を意識する

ことである。」

ニューマンがいう場の感覚とは、私の言葉に直すならば、見る者が占める位置についての自覚

である。位置についての国谷の関心は最初に掲げた展覧会のタイトルからもうかがうことができる。

垂直に吊るされたネオン管は素材をむき出しにしたきわめて単純な構造であり、多くの場合規則的

に配置されているため、その全体をつかむことはたやすい。しかしプルーストが記した

マルタンヴィルの鐘楼の印象のように、それらは見る者の位置によってその様相を刻一刻と

変化させる。単純な形態を享受する体験の複雑さ。現実の空間における作品と観者の関係。

いうまでもなくこれらはミニマルアートの主題であった。国谷はさらにもう一つの契機を作品に

導入する。プルーストの書き留めた印象が走行する馬車からの眺望として記述されていたことを

想起しよう。国谷のネオン管は多くの場合、見る者を内部に誘い、あるいは一つの方向へ誘導する

がごとく配置され、一点から凝視されるのではなく、観者の移動、位置の変更を前提としている。

このような特質は国谷の作品を時間という問題系へと結びつける。位置とは空間と同様に時間の

中においても画される。この時、本展において一見異質に感じられるもう一つのタイプの作品、

底の抜けた砂時計の意味も明確となる。重力に従ってガラス管から落下した砂は床に円錐状に

堆積する。通常の砂時計においては上下を反転させて砂の刻む時間が無限に反復されるのに

対して、底のない砂時計が刻む時は一過的で繰り返されることのない、現実の時間を暗示する。

この時、床に堆積する砂、あるいは今までの作品において使用された火のついた蚊取線香や

ガラスケースの中で燃焼するアルコールランプはいずれも果てしなき時間の流れの中での鑑者の

位置を区切る指標と考えることができよう。

私たちにとって位置とは身体がある時間に占有する場所であるが、かかる認識はあまり自明である

がゆえに通常意識されることはない。

しかしひるがえって考えるに、身体と空間と時間とはいずれも代替不可能な点において共通し、

位置とはこの三者が奇跡のように再会した状況に与えられた名にほかならない。

そもそも彫刻とともにあるという体験は本来的に人の位置、身体や感覚と深く関わっている。

国谷の発光するガラス管、微妙な凹凸を刻印された直立状の表面から私はニューマンと並んで

ジャコメッティの彫刻を連想した。ジャコメッティもまた目前のモデル以上にモデルが置かれた

空間や距離に関心を抱いて制作を進めた作家である。絵画や彫刻といった形式を超えて国谷、

そしてニューマンとジャコメッティの作品がいずれも垂直性を強調している点は興味深い。

作品の形式的な完成度もさることながら、国谷の作品は私たちの生が特定の位置、限定された時と

場所の中で営まれていること、つまり「私の身体が、今、ここにあること」を強く自覚させる。

作品と出会う体験とはこの場限りの、一度限りのかけがえのない事件である。

ごく当たり前に感じられるこのような前提も現実より仮想が優越し、複製と反復が氾濫する今日、

ともすれば見過ごされがちである。国谷の作品は美という彼岸に私たちを連れ去るのではなく、

現実の中で見る者を鍛える。しかし優れた作品、とりわけ彫刻は常にそのようなものではなかっただろうか。

Spaceless Spaces

, 2007.

息、ガラス、ネオン、変圧器、コード

サイズ可変(ネオン管 各124×3.5×3.5cm).