2024 ©国谷隆志 All Rights Reserved. Photo by Takateru Kusaki.
Installation view of Gallery PARC, Kyoto.
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《 Untitled(Recipe #1)》は国谷隆志の代表作となるだろう。

Recipe=レシピは万人に開かれていなければならない。 Aさんには理解できるが、Bさんには理解できない、というようなレシピは失敗作である。 レシピの語源は、薬の処方箋であり、薬の調合についての指示・命令を「受け取る」ことに由来するそうだ。指示であり、命令であるからこそ、 それは文学的装飾とは無縁であり、単純明快である。そしてレシピは普通名詞で語る。時間と場所を違えても実現可能であるように、 その内容は具体的でありかつ抽象的である。ニンジンaとニンジンbは常に交換可能である。そのレシピに応じて作られた料理は成功し ても失敗しても同じ名前で呼ばれる。レシピは、偏差を排したメッセージであり、純粋で強い。

国谷隆志は2011年のGallery PARCでの個展に、文字列を象ったネオン管による作品を出品した。目線の高さに置かれたそれは鮮やか な黄色に光っていて、文字として人々に良く知られた面ではなく、その横面をさらす格好で置かれた。少しかがんでみれば、ガラスの天 板越しに Mars is not yellow と読める。文字の姿は筆記体に近い。軍神の名で呼ばれる火星は天体としては赤いから、確かに 黄色ではない。何も間違いはない。そしてこれは隠しておくほどの秘密ではない。秘密ではないというのは、火星が黄色ではない、とい うことと、国谷の作品が文字列を象っているということの二つを指す。わざわざこのことをここに書いたのは、この二つともが、秘密だ と思ったものが秘密などではなく、秘密を発見するカタルシスは初めから奪われていた、と言いたかったからである。

発光する文字列による作品は2012年の京都芸術センターでも発表された。パリで夜通し行われる行事にちなんだ展示であったためか、 光の色は赤、白、青のトリコロール。少しかがむと順に Red, White, Blue と読める。フランス語のイベント名にあてつけるように 英語で三色を名指すのは国谷のユーモアとも思われるが、むしろ最も流通可能性の高い言語、ニュートラルな言語として英語が選択され たと考えたい。字体に無個性な活字が採用されていたことは、そう判断した根拠のひとつである。自己言及的な同語反復は、それが置かれ る文脈との接点をひとつ失うごとに、ナンセンスの強度を増す。ここでも、文字として読まれうる発光体は、観客に対してその文字として の側面を隠すふりをするかもしれないが、隠されていたメッセージなどありはしない。その作品を見たときから、その発光体が赤、白、青 であることは皆、知っている。ところで、告白しなければならないのだが、私はRed, White, Blueが red, white, blue であったか、 RED, WHITE, BLUE であったかを思い出すことができない。そして三色の並びはどうであったか。見るより先に読まされる。 言語による読解は視覚を曇らせる。

Recipeと呼ばれる今回の作品にも秘密はない。その秘密の無さに私たちは驚くのである。腰をかがめる労をいとわなければ、ネオン管 の語る内容は明快である。料理のレシピ。冒頭のレシピについての繰り言を繰り返すなら、レシピは神の言葉と同程度に形而上学的で あると、国谷の新作に接した今は言いたいのである。

言葉を言葉として機能させつつ、その機能を無効にする国谷の作品から、マグリットや高松次郎などの作例が想起されるのは当然だろう。

しかし、今回はある種の啓示として国谷の作品における言葉をとらえたい。例えばレンブラントの《 ベルシャザルの酒宴(壁の言葉)》 (ロンドン・ナショナル・ギャラリー 1635年頃)と比べてみるのはどうだろう。

レンブラントの作品に描かれているのは旧約聖書のダニエル記第5章に語られる物語である。バビロニアの王ベルシャザルがエルサレ ムから略奪した品々を用いて酒宴を催していると、突然中空に人の手が現れ、光り輝くヘブライ文字を書き記した。ベルシャザルは恐れ 慄き、その場にいる者には文字を読むことができなかったので、捕らわれの身であった預言者ダニエルを呼び寄せ解読させる。ダニエル はベルシャザルの神への冒涜を難じ、光り輝く文字は彼の治世の終わりを予告するものと説いた。その夜、ベルシャザルはメディア王国 の放った刺客によって暗殺された。

国谷の作品とレンブラントの作品とに共通するのは、文字が光ること。そしてその文字に接した人間が、それが語るメッセージに適切に対 応できないことである。ベルシャザル王は預言者の力を借りてメッセージを解読したが、自身を襲う悲劇を避けることはできなかった。 私達は国谷の作品が語るレシピをたやすく読み解くが、何故そのレシピが与えられたのか理解できぬまま放置される。レシピに応じて 料理を作れば良いと考える人がいたとすれば、それは奇跡的な間違いである。

何故レシピなのか。これまで私が述べてきたことは、この問いが罠なのだ、ということに尽きる。言語的な理解に回収されるような根拠 を国谷は用意していないはずだし、そうすべきではない。それでも納得のいく答えがあるとするなら、「そのボリュームが展示空間に ちょうど良かったから」、というのはどうだろう。これは、レシピを形而上的テキストと仮定して、その根拠を支え得るのは形而下的、 物理的な制約であって欲しいという、対照性にあこがれる私の独断である。例えば床に置かれた紙に偶然転写された文字《 Drawing 》、 神聖化された靴底《 The sole of workboots 》。国谷の無邪気な悪意は触れ得ない世界を物質界に引きずり降ろし、卑近な存在を聖別 してみせる。鏡に刻みつけられる格子はどうか。映像世界を「 」に入れる、別の言い方をすればメタ化する振る舞いと理解すれば、 それはネオン管の文字列を伏せて置くのと良く似ている。

兵庫県立美術館 学芸員 小林 公

Untitled ( Recipe #1 )

, 2012.

ネオンチューブ、変圧器、ガラス、鉄

サイズ可変.